ぱその推しゴト。

私の推しゴト(主にSnow Man、Hey! Say! JUMP)について日々感じたことをまとめていく場所。

推し、燃ゆを読みました。

みなさんおはこんばんちは。どうも、ぱそです。
 
「推し、燃ゆ」を読みました。
少し、拙いながらも感想を残しておきたいなと。
ネタバレあるから注意してね。
 
なんか、私もこうなってしまうかもなって漠然と感じました。
ずっと苦しい。わかるからこそ苦しい。
作中の言葉一つ一つにカケラだけでも自分の中にあるものを感じ取ってしまうから苦しいんだと思います。
 
この作品は私達オタクにとってあまりにも共感ができすぎてしまう。
いまもどこかで同じ思いをしてる人がきっといる。
成美のような人も絶対いる。すぐそばにいるかもしれない。
フィクションだけど、フィクションじゃない、とてもリアル。
 
なんかねえ、ほんとに描写がリアル。
あるある、ああいう急な解散の発表。みたいな。
なんかね、ずっと嫌な予兆はあるんだけど決定の日は唐突に来るんだよね。
は?????????って思ってるし頭真っ白になって背筋がすーーーと冷たくなる感覚がして、でも心の奥底では納得してんだよね早々に。それを選んだんだなって思ってるの聞いたときには。
 
結局オタクはオタクでしかないから、彼らが決めたことについていくしかない。
嫌なら身を引くしかない。それがオタク。
オタクは与えられたものをありがたくいただくだけの存在だと思っているわけなのね、私は。

そうは思ってても辛いことにゃ変わりはないわけで。
あるなーーこれはある。って部分もあれば、そんなことある?って部分もあって、
ノンフィクションを読んでいるかのようにのめりこんで、自分に照らし合わせてるとたびたびフィクションに戻される感覚。
でも一つ一つの言葉には共感の嵐で。Kindleで読んでいると「○○人がハイライトしました」とかって、表示されるんだけど、この機能が私にはとても新鮮で。
「たくさんの人がこの表現になにかしら心を動かされたんだな」
というのが伝わってきてとても良い。いつもKindleは漫画ばっかりだったから書籍もっと読もうって思った。
 
私も唯一一節だけ、ハイライトしました。
「どの投稿も四角い縁で囲まれ、円のなかに等しくアイコンが切り取られ、まったく同じフォントで、祝ったり、怒ったりしていた。あたしの投稿もあたし自身も、そのなかの一部だった。」

 引用:「推し、燃ゆ」P.950より

なんでここなのか私にもよくわからんけど、
なんか私が常日頃感じている「オタクの多様性」を感じたのかなぁ。
同じフォントや丸アイコンでもそこにはたくさんの"人"がいて、
SNSって面白いなと思わされるんだよね。
そんな面白さを感じた一節だった。 
 
私はいろんなグループごとに推しがいるけど、
いまだに一推しの卒業、結婚、活動休止、脱退、解散、退所等には直撃したことなくて、(唯一ガキさん(新垣里沙さん)は当時一番好きな人だったけど、卒業発表が先か、私が追い始めるのが先かみたいな感じだったしな…。)
(ベリキュー、カンガルとかは衝撃ではあったけど一推しではないという感覚)
…なんかある意味そういう人を選んでるのかな、自然と。とか思ったり。

嘘ついた、ねむきゅんがいたわ。
ねむは圧倒的一推しだった。いやあでもねむも卒業めちゃくちゃ匂わせてたからなあ。
まあそうよねえくらいにしか思ってなかったな。

きっとえりぽんは近い将来卒業するだろうし、
有岡くんも結婚するかもしれないし、
いつまでJUMPがJUMPとして活動してくれるかわからないし、
目黒くんがずっとSnow Manに居続けてくれるかは予言なんてできないし。
もしそうなったとき私はどうなってしまうのかなと漠然と考えることはこれまでもたまにあって。JUMPは、有岡くんは、Snow Manは、目黒くんは間違いなくいま私にとって生きる糧で、なくてはならない存在で、私は彼らに生かされてると言っても過言じゃないほど支えになっています。
辛くても推しをみれば笑顔になれる、自然と嫌なことも忘れてる。
そんな存在がある日突然いなくなったら、なんて考えたくもないなあ。
 
推しって、友達でもない、恋人でもない、家族でもない、推しは推しでしかない。
そこには、恋人や家族、友達とは違う愛がある。
オタクの中には本気で恋してる人もいるだろうけど(それも一つの形だと思うが)、私にとってそれはもはや推しではない。
いつから推しのこと推しって言うようになったんだろうな…。
推しって言いだしたのって結構最近だと思うんだ。その前があったはずなのにもう思い出せないな。
「推しに出会う前ってこの時間何してたっけ」って感覚に似てるな。

推しは他の何でもない「推し」なんだよ!!!伝わってくれるかいこの感情が!
 
主人公はさ、何かしらの病を抱えてて、その「重さ」から唯一解放されるのが推しを見ているときだって。
人それぞれ大小さまざまな「重さ」を抱えてて、そこから解放されるために推しを愛でているという感覚は自分の中にもあって。
写真、Youtube、コンサート、テレビ。もろもろ、いろんなそれらを吸収して私は生き返った感覚に落ちるのよ。あー、生きてるなって。
そのために起きて、働いて、寝る。そのためにお風呂にも入る、化粧もする。
いろんな界隈の推し達、私を人間にしてくれてありがとう。あの時救ってくれてありがとう。
推しって最高だな。

なんかほとんど私の推し感についてダラダラ話してるだけになってしまった。
 
最後に。
私の推し達よ、燃えないでくれ。